永隣寺の歴史

名称
 正寿山 観音院 永隣寺 Shojusan Kannon-in Eirinji
本尊 
 十一面観世音菩薩
開山
 甘楽郡甘楽町轟宝積寺十二世 芳谷永とん大和尚(とん=麻の下に香)
開基
 国峰城主小幡尾張守重定の二男 小幡弾正左衛門信重
由緒
 永禄年間、小幡信重が永隣寺を建て菩提寺とし、寺領として9,750坪を寄進。信重は、永禄12年(1569年)12月6日、武田信玄の駿河進出の際、北条氏が守る静岡の蒲原城の戦いにおいて26歳で戦死。戒名は徳翁永隣禅定門。信重の夫人は、天正15年(1587年)5月29日に逝去。戒名は算室正寿禅定尼という。

 
 小幡氏は、戦国最強と言われる武田の騎馬軍団の中でも、特に『小幡の赤備え』として、とりわけ勇猛を馳せた。元亀3年(1573年)武田信玄が上洛を目指し、徳川家康と三方ケ原で対戦。この戦いで家康は信玄の作戦にはまり、生涯で最大の敗北を喫する。この時小幡の騎馬勢による奇襲攻撃が、徳川勢総崩れの要因のひとつとなったとも言われる。
 その後、武田氏は信玄が病死し、武田勝頼が後継者となる。しかし、武田軍は長篠・設楽原の戦いで3000挺の鉄砲を備え、さらに馬防柵で守りを固めた織田・徳川連合軍と戦い大敗北を喫し、武田氏はついには滅ぼされてしまう。この戦いで小幡隊も馬防柵越しの敵陣への突撃を繰り返すなど勇敢に戦うが、多くの兵を失い小幡氏は壊滅的な打撃を受ける。
 

 この後、武田氏は滅ぼされ、小幡氏は織田方の滝川一益に従い、さらに織田信長が本能寺で討たれると、北条氏の配下となる。そしてついには、豊臣秀吉による北条攻め(小田原の役)の際に、前田・上杉といった北国勢が上州に侵攻して攻められる。国峰城主小幡信真は小田原の役の際には一族を率いて参陣し小田原城に立てこもった。
 宮崎城は小幡彦三郎(信重の子)・小幡帯刀が守っていたが、北国勢の藤田信吉に謀られ、徹底抗戦せぬまま攻められ宮崎城は落城した。この時のものかは分からないが、発掘調査から柱跡には柱が焼けた炭が残り、火災に遭ったことが想像される。国峰城は小幡信秀らが守っていた。国峰城は抗戦ののち水の手を攻め取られて落城し、廃城となった。その後、小幡氏一族はちりじりとなり、様々な運命をたどっている。

 北条氏が滅び、徳川家康が関東に入府にあたり、3万石の領地が奥平信昌に与えられ、宮崎城に入った。その奥方(家康の長女・亀姫)が永隣寺三世快岩春慶和尚に帰依し当寺を祈願所としたことから、1649年(慶安2年)、三代将軍家光より朱印地23石を賜ると寺誌にある。


箱と御朱印の写しのみが残る『御朱印箱』

 江戸時代は戦もなく平和が続いた。寺院に対しては徳川幕府によって『寺請制度』という制度が始められた。キリシタンの取り締まりもあり、すべての人々がいずれかの寺院の「檀家」となることを強制させられ、寺院から「寺請証文」という身分証を受け取らなければならない制度であった。また、寺院が檀家となった住民の戸籍や移動転居等の管理を行うこととなり、今の役場のような仕事も請け負った。この檀家制度ができたため、大きな援助者がいなくても寺院は経済的に安定することができた。

 永隣寺は450年余りの歴史を持ち、現在の住職が25世である。今まで安永年間(1780)に一度、天保3年(1832)、天保11年(1840)と三度大火災にあう 。 現在の本堂・山門は明治30年(1897年)に21世小峰道能和尚が浄財を募って再興したものである。

 さらに永隣寺ゆかりの人物としては、江戸時代中期あの良寛さんから『心の師』として慕われた大而宗龍禅師が上げられる。

 


宮崎城と神成城

    • 宮崎城
    •  現在富岡市立西中学校が建つ場所に宮崎城があった。西上野は砥石、馬の産地でもあった。宮崎は小幡氏の経済的な拠点として、また、守りの拠点として重要な位置にあったと思われる。奥平氏に移ってから改修工事が行われた可能性もある。ただ、城郭は中学校建設工事のため多くの遺構が失われている。
    • 宮崎城跡に立つ案内看板
    • 神成城
    • 宮崎城の要害城とされる。宮崎城から西へ尾根伝いに進むんだところにある。丘陵上を平坦にし、幾重もの空堀、竪堀、帯曲輪、土塁等で守るように造られている。

 

 


亀姫

  •  令和5年1月より、NHK大河ドラマ『どうする家康』が放送されたが、この中に亀姫は次のように登場している。
  • 「家康と瀬名との間に生まれた、徳川家の長女。母に似て愛らしく天真らんまんで、家康からの溺愛はもちろんのこと、周囲から愛されて育つ。山深く奥三河にある長篠城城主・奥平信昌と政略結婚を持ちかけられる。」(NHKのWEBページ、大河ドラマ「どうする家康」より)
  • 亀姫を演じた當真(とうま)あみさん。
    yahooニュースより)
  •  慶長5年(1600年)天下分け目の関ヶ原の戦いでは家康方の東軍が勝利を収めた。亀姫の夫、奥平信昌は徳川方の武将の一人として戦いに加わっている。
     宮崎城で暮らす亀姫は、永隣寺を祈願所としたということなので、おそらく永隣寺三世快岩春慶和尚の元で、父である家康の勝利や夫信昌の武運・無事その他を祈ったのであろう。
     その後信昌は、同年9月から翌年3月まで京都所司代となり、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を捕らえた。慶長6年美濃加納藩に転封となり、領地は3万石から10万石に加増された。転封により、宮崎城は廃城になったということである。信昌は慶長20年(1615年)3月14日加納で没した。
     亀姫は寛永2年(1625年)5月27日加納で没した(66歳)。
  •  宮崎城主のときに奥平信昌が開基となり、心庵宗祥禅師が開山に尽力した寺が近くの富岡市宇田にあります。神守寺のWEBページはこちらから。
  • 神守寺の奥平信昌(久昌院)・亀姫(盛徳院)夫妻の位牌

 

大而宗龍(だいにそうりゅう)禅師

  •  江戸時代後期、下丹生で生まれ、永隣寺九世紹山賢隆和尚の元で仏門に入り、当時の曹洞宗の宗門改革と民衆教化と救済に力を尽くし、多くの人に影響を与えた大而宗龍(だいにそうりゅう)禅師という方が出ている。自ら『常乞食僧(じょうこつじきそう)』と称し、生涯を通して大きな寺に長く安住することなく清貧な生き方を貫いた。あの良寛さんが『心の師』と慕った方でもある。くわしくは、秩父市廣見寺様のWEBページへ
  •  大而宗龍禅師(高山市大隆寺蔵)

 

「丹生(にゅう)」の地名について

 永隣寺のある富岡市下丹生の丹生神社境内に「真金ふく 丹生の真朱の 色に出て 言わなくのみそ 我が恋ふらくは(まかねふく にふのまそほの いろにでて いわなくのみそ あがこふらくは)」という万葉集の歌碑が建っている。

 「真金吹く」は「丹生」の枕詞である。ふいごで吹いて製鉄を行っている様子を表している。下丹生には、「下鍜冶屋(しもかじや)」という地名が残り、また、鋳物師(いもじ)という屋号の家もある。実際に永隣寺の半鐘は、当地の鋳物師太田半兵衛作との銘がある。昔から製鉄業が盛んであったと思われる。
 歌の意味は、「鉄を含んで赤い色をした丹生(にふ)の真朱(まそほ)のように顔色に出て 言わなくても分かってしまう 私の恋心は」という、恋の歌である。 

 「丹」とは、朱砂(丹砂、辰砂)のことである。日本に漢字が伝わった時、日本で「に」と呼ばれていた鉱物が中国で「丹」といわれていたものだったので丹の字を当てたのであろう。もともとは丹とは、水銀の原料の朱砂のことであったようである。
 その「丹」を産出する地または「丹」を扱う人たちが住んだところに「丹生(にう)」という地名がつけられている所が多い。三重県の丹生鉱山などは実際に水銀を産出する。周辺では、粉砕した朱砂を利用して赤く色づけした縄文土器も発掘されている。
 富岡市丹生で、本当に朱砂を産出したのか、ローム層の赤土は多いのでそう呼んだのかは定かではない。

 話は変わるが、小幡の「赤備え」は具足から馬のムチやアブミまですべて赤かったとされる。それには朱漆を用いるが、大量の朱砂が必要となる。丹生で朱砂が産出されていれば手に入れることは容易であったことだろう。